ミルケアアプリの性格テスト機能を開発・監修された椎野睦先生は、これまで臨床心理士として、特に不登校・引きこもり等の問題を抱える家族のカウンセリングや支援に取り組まれてきました。こうした家族問題の背景にもあり、増加傾向にあるといわれる非定型発達(発達障碍ともいわれています)に対する考え方や捉え方、そして家族が心身ともに健康に暮らしていくヒントを臨床心理学の視点から聞いてみました。

“非定型”に過敏な時代、親と子はどう生きるか

―発達障碍が広く知られ、治療の対象としても認められたことで、必要とする子どもが早期に治療、療育を受けられるようになりました。その一方で、パパママが我が子の発達について不安に感じることも多くなっているのではないでしょうか。

そうですね。行き過ぎた誤解が混乱を招いているところもあると思います。教育現場では、なんでもかんでも発達障碍に結び付けて、子どもが犠牲になっていたり、親御さんが本来は感じる必要はなかったのではないかと考えられる悲しみを感じている状況も見受けられます。

カウンセリングに来るケースでも、「AD/HDっていわれちゃったんです」という方がいて「それで、あなたは何に困ってるの?」って聞くと何もなかったりする。おかしな話です。本人は困っていないのに、周りが「発達障碍じゃないか」と診断名をつけようとする、これはもってのほかだと思っています。誰のための診断なのか、ちゃんと向き合っていかないといけない。

我が子の発達に違和感を感じたときに、親御さんは診断名をつける意味や価値を丁寧にに考えたほうがいい。診断を受けて薬を飲めばじきに治るというようなものではないので、誰が、何に困り、何のための診断なのかと。診断名がつけば、社会的な資源を活用して効果的なサポートを受けることができ、本人が苦手なことを克服していくための教育や治療や支援が受けられる。その延長線上にプラスの未来を描くことが大切だと思います。

―椎野先生がそうお考えになる理由は?

非定型発達の特性の診断はあいまいで、とても難しい。それはここ数十年で診断名が何度となく変わっているところからも感じます。裏を返せば、まだまだ診断は完璧じゃないと考えられます。たとえば、俗に「アスペ」と称されているアスペルガー障碍は、 米国精神医学会によるDSM(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders)という精神疾患の診断基準の最新版(第5版)では、厳密にいえば診断名がなくなりました(自閉症スペクトラム障害に合併)。診断はまだまだ絶対的に完成されたものではない。じゃあ、何が大切なのかといったら、本人とご家族がその状況をどう受け止めて、どう生きていくことを求めているかじゃないかだと思います。

―さまざまなケース、診断があり、もちろん一概にはいえないと思いますが、これまでのご経験から、椎野先生は非定型発達の特性をどんなふうに解釈していらっしゃいますか?

非定型発達を主訴にして相談にこられたご家族の皆様とのカウンセリングを通じて感じることは、「Gift」という概念が一番しっくりくる気がしています。「Gift」って、英語での意味は「天賦の才能」とか「贈り物」ですが、ドイツ語での意味は「毒」と訳されるそうです。言葉自体に他意はなく、発達の凸凹を毒(Gift)ととらえる人もいれば、素晴らしい才能(Gift)として活かしていく人もたくさんいらっしゃるということです。

親御さんが幼少期から、どのような目線で子どもを見つめていくかは子育てにおいて非常に大事だと思います。非定型発達の科学的な解明はこれからだし、いまの医療で消えるものでもない。だとしたら、もちろん困難に感じる度合いにもよるけれど、1つの才能として使いこなしていけた方がHAPPYでしょう。でも、子どもの発達に凸凹があったら、それに向き合っていくことは容易ではありません。そこで本人に与えられしものを最大限活かした人生設計をして本人とご家族の歩みのサポートする、それが私たち心理支援職の使命でもあるように。

幼少期の親の愛情こそが、健全に子を育む鍵

―たしかに1つの才能として考えていけたらいいですね。では、もし子どもの発達に凸凹があったら、具体的に親はどう向き合い、関わっていけばよいのでしょうか。

何が大事かといったら、何よりも親の愛情だと思っています。私は、最終的にその子が大人になったときに、①自分で自分を愛することができ(自己の存在と価値を承認し)、②他者からも愛され(存在と価値を承認され)、③社会からも愛される存在になることが大切であると感じます。そのためには、まずは幼少期に親から受けるプラスの愛情(存在と価値を肯定・承認してもらえる心の経験)が大切であると考えています。愛している両親に愛してもらえるという幼少期の実感と経験が、自暴自棄にならず、自分を大切で価値のある存在と受けとめられる自己肯定感につながり、困難なことがあっても前向きに人生と向き合っていけるようになるのだと考えています。

非定型発達の子は、能力に凸凹がありますから、自分で自分の価値や能力を認めることがより難しくなります。でも、ご両親がその子に「いいの、いいの、人とはちょっと違うけど、あなたにはこんなにいいところがある」「大丈夫、あなたにはあなたにしかない価値があるんだから」と愛情をもって伝えていけたら、それはその子が健康に自分を愛することの一歩につながるのではないでしょうか。

かつてのトーマス・エジソンがそうであったように、非定型発達であることが問題なのではなく、その課題と本人や家族がどのように向き合っていくかによって本人の人生は大きく変わってくるし、その才能が世界を救うことになる可能性もあるのだと思います。

―逆にそれができないと、どんなことが起きるのでしょうか。

よく相談をうける事例では、子どもが外で人に迷惑をかけることがあってお母さんが責められ、どんどん追いつめられた結果、必要以上に子どもにあたったり、怒ったり、適切に愛情を与えられなくなってしまうケースです。非定型発達の特性を持つ子はそもそも何で怒られているのかを自覚しづらいし、怒られてばかりいると「何をやっても怒られる」と開き直ってしまう。そして、お母さんに自分の存在を認めてもらいたくて、迷惑をかけるというマイナスの言動で注目を集めようとしてしまうこともあります。怒られるという形でも愛情が欲しいんですね。そうするともう悪循環です。

だからこそ小さい頃から、毎日の関わりのなかでちゃんとプラスの部分に目を向けて、プラスの愛情を注いであげることが大切なんだと思います。そして、逸脱した行動をとってしまい、人や社会に迷惑をかける行動をとった場合、「存在を承認して、行動を否定する」という注意の仕方が大切なのだと思います。

―先ほど名前の挙がったエジソンや坂本龍馬にも非定型の発達特性があったといわれています。非定型の特性を持っていても、社会で成功していたり、活躍する人も多いですが、共通する特徴などはありますか?

これはパーソナリティの違いが一因としてあるのではないでしょうか。社会で活躍されている非定型の発達特性をもつ方というのは、幼い頃より家族から愛情を受け、適切な教育をうけ、パーソナリティが健全に育まれたように推察しています

そうすると、人よりも苦手なことや上手くできないことが多々あるが、自分には存在する価値があり、人よりも得意なこともあり、「努力すればできる」「努力する価値がある」と前向きになれるように思います。また、自分の苦手なことやミスも受け入れることができるようになり、人に迷惑をかけたら謝罪しなければならないし、後始末もしなければならないという道徳心も芽生えるのではないでしょうか。そして、自分を信頼することができるようになることが、社会を信頼することに繋がり、できないことは周囲に適切にサポートを求めることもできるようになるのではないかと思います。だから、パーソナリティが健全に育まれていれば、弱みはあまりネックにならず、強みを生かして社会に適応していける可能性も高くなる。そう思います。

―親のかかわり方で子どもの人生が変わってしまう…。気を付けなければいけません。

あまり気負いすぎてしまい、親御さんが心に余裕をなくしてしまっては、良い子育てはできませんので、その辺がまた難しいところですよね。また、よく見受けられるその他の問題として、親御さんが我が子を通常級に通わせることや、少しでも学力の高い学校にと進学させることに過度にとらわれすぎてしまい、適切な教育の機会を失ってしまうことも挙げられます。お気持ちはお察ししますが、学校はゴールではなく社会に出てより良い人生を歩むための通過点であると思います。つまりその子とその人生に則したテーラーメイドな教育とキャリアデザインが必要であり、画一的な価値観でとらえてしまうのは結果としてその子の将来のためにならなくなってしまうということもあるように思います。非定型の発達特性をもつ方々を採用し、部署を立ち上げ、部署として黒字を計上している大手の企業や、大人の発達障碍のリハビリを経て、そのままそのリハビリを行っていた病院が職員として採用するという事例も見受けられます。診断を受けたら、それを受けとめ、しかるべき教育を受けて苦手な部分を克服していれば未来は拓ける時代であると思います。

人生をロングショットで見れるか否か

―発達面だけでなく、子育てをしているパパとママは日々さまざまなことに悩んだり、迷ったりするものだと思います。最後に、どんな状況でも、前向きに子育てを楽しんでいくコツをお聞きかせいただけますでしょうか。

チャールズ・チャップリンがこういう言葉を残しています。「Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.(人生はクローズアップで見れば悲劇、ロングショットで見れば喜劇)」。

思い出すと落ち込んでしまうような失敗談も、ときに友人などに自虐的な話のネタとして笑い話にするとその場が盛り上がるだけではなく、自分自身がその出来事を受容することができ、救われたなんて経験をしたことがある人は少なくないのではないでしょうか。

私たちは自分の心と問題が近すぎてしまうときは、悲しみや怒り、不安、憂うつな気持ちなどに縛られてしまう。ですが、ほんの少し距離を置いて眺めてみる(ロングショットで見てみる)と、自分を含むその状況を冷静に客観視できて、意外と滑稽に感じて笑いが生じるということがあります。

そして「笑いが先か、客観視が先か」という議論が心理学の世界ではありますが、興味深いのが、これは双方向にありえるのではないかという結論が出ています。「Humor ist, wenn man trotzdem lacht.(ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと)」というドイツの言葉もあります。「子育てが大変であるにもかかわらず笑える家庭」とか「失敗ばかりにもかかわらず笑える家族」など、この「にもかかわらず笑う」という感覚が持てると、冷静で客観的な自分を取り戻すことができて、絶望の中でも少し光がさしてくるように感じるかもしれません。

そして、以前私が行った研究において「問題に対して自身を勇気づけるようなユーモアを活用することは、心が問題に対して健康な距離感を回復させ、問題を受容し、解決に向き合っていくモチベーションを高め、抑うつ感を軽減させる」という結果が示されました。つらく苦しい子育ては、自然と心が問題と近くなりすぎてしまうように思います。一度冷静に客観視できる機会を得ることができれば、笑顔を取り戻し、もう一度目の前の子どもを心から愛し、人生の課題と戦っていく力が湧いてくるかもしれません。

photo:Hideo Nara

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